フリークライミング リンク集
フリークライミングとは、ロッククライミングの一種で、安全のための確保用具のみで、自己の技術と体力を使い岩を登るスポーツ。
アブミなどの登攀のための道具を使う人工登攀と対比される。基本的に、元来そこにある自然の造形(岩の出っ張りやポケット)などだけを利用して登る。ロープを掴んだり、ボルトなどの人工物を持ったり、足場にして登った場合は、フリークライミングとは見なされず、人工登攀の一部と見なされる。
また、登山を前提にした伝統的なアルパイン・クライミングと対比して、手段を目的に変化させ、岩を登ること自体を目的して行われるロッククライミングのことをフリークライミングと呼ぶこともある。
自然の岩場以外に、人工の岩を登るインドアクライミングもフリークライミングに含まれる。フリークライミングでは、ルートないし課題の完登が主たる目的の1つであるが、クライミングのムーブ自体を楽しむことも重要な目的となっている。このため、そのスポーツ的性格に着目してスポーツクライミングと呼ばれることもあるが、この場合は、外的危険を排除したインドアクライミングやあらかじめ強固なボルトが打たれた自然壁でのクライミングを指す場合が多い。フリークライミングを行う者をフリークライマーと呼ぶ。
フリークライミングは、ヨーロッパで登山が発生したころから行われてきたが、はっきりと「フリークライミング」を目的として行われるようになったのは 1950年代のヨセミテであるとされている。アレン・ステック、ジョン・サラテ、ロイヤル・ロビンス、イヴォン・シュイナード、トム・フロストなどが、ボルトをなるべく排除したクリーンなスタイルでクライミングを行い、麻のロープを腰に巻くような古い装備で、既に5.10代のルートや、長大かつ冒険的なルートが拓かれていた。 その後、フリークライミングの「グレードを押し上げる」という意味での中心はフランスに移った。良質な石灰岩の岩場に恵まれ、ヨセミテの「ルートはあくまで下から開拓する」というグラウンド・アップの原則を排除して、岩場上部から懸垂下降してのボルト打設を行うフレンチ・スタイルは、グレードを押し上げる点においてはヨセミテの方式よりも遙かに効率的であった。そうした中で、さらにスポーツとしての発展を目指すべく、ジャン・クロード・ドロワイエは残置ピトンなどの人工物をホールド(手懸かり)やスタンス(足場)として使用することをやめるよう提唱し、次第に広く受け入れられるようになり、フリークライミングとは「自然の造形のみをホールドやスタンスにして登る」ということが一般化された。フランスでは岩を削ってルートを開拓するチッピングもさかんに行われていたが、次第にこうした傾向も下火になり、(まだ一部では行われている)あるがままを登り、可能な限りクリーンなスタイルを目指すという原則が認知されてきた。
一方、日本では、1956年の日本山岳会隊によるマナスル登頂などを頂点とした、ヒマラヤ処女峰の登頂が至高の目的とされる風潮があったが、次第に社会人山岳会による精力的な岩壁登攀が主流となっていった。このころ拓かれたルートには今なおフリークライミングとしても質の高いルートが見られる。しかし、安易にボルトを乱用する風潮が見られるようになると、国内の岩壁は「どこへ行っても6級A1」という閉塞状況に陥るようになった。こうした中で、クライマー達の目は次第に近郊の岩場におけるフリークライミングへと移り、各地でフリークライミングのゲレンデ(当時、山岳地域の岩場を「本チャン」、近郊の岩場を「ゲレンデ」と呼んだ)が開拓された。
1980 年の戸田直樹・加藤泰平による谷川岳一ノ倉沢コップ状岩壁正面壁雲表ルートのフリー化は、閉塞状況に穴を開け、各地で起こっていたフリークライミングの波を大きなうねりにするのに十分なインパクトを持っていた。このころおもな古典的ルートが次々とフリー化され、現在出版されているルート図集を見ると、ルートの「フリー化」の欄には、檜谷清、池田功、南場亨祐、森徹也など、当時活躍した人々の名が必ず見つかる。
80年代ごろから山岳地域の「本チャン」のフリー化と、ゲレンデにおけるフリールートの開拓がクライミング界の主流となっていったが、かつてのアルパインクライマーはフリーの技術を学ばずにそのまま6級A1を続ける者と、フリークライミングを積極的に学び、アルパインクライミングに活かす者に分かれた。前者はその後新しい技術を学ぶ機会がないまま、いわば時代の流れに乗り遅れた形となったが、中には若いフリークライマーを「本チャン」に連れて行き、その厳しさを教えるなどの形で、クライミングシーンを盛り上げる者もいる。後者は世界レベルの登攀を行うようになり、代表的な例として、90年の保科雅則らによるグレート・トランゴ・タワー北東ピラー第二登があげられる。この系譜に連なるクライマーは現在も少数ながら存在し、世界レベルの登攀を行って、フリークライミングがアルパインクライミングにとって必要不可欠であることを実証し続けてきた。
一方、近郊のゲレンデで高難度を追求する、今日的な意味でのフリークライマーが現れるようになり、優れたフリークライマーと、今日でも名ルートとして親しまれている質の高いルートが続々と産まれた。1987年から開催されるようになったジャパンカップなどの当時のコンペの順位表を見ると、このころ活躍したクライマーと、その移り変わりを見ることができる。90年代初頭は堀地清次、寺島由彦ら、ホールド制作や人工壁運営で知られる人々が活躍し、徐々に杉野保、平山ユージといった若い世代が台頭していった。中でも平山は、コンペやゲレンデでのフリークライミングに留まらない活躍を見せ、1997年、ヨセミテのサラテ・ルートをフリーで登り、ほぼ全てのピッチをオンサイト(初見で一度も落ちずに登る)するという、初期ヨセミテの理想を体現するフリークライミングを行い、世界を驚かせた。1998年のワールドカップでは日本人初のシリーズ総合優勝に輝いている。一方、コンペにはあまり出ずに岩場で自分のクライミングを追い求めた者もおり、この代表格として日本最難のクラックルート「マーズ」を開拓した吉田和正がいる。
2000年代に入ってからはさらに若い世代が台頭し、フリークライマーの志向がルートクライミングよりもボルダリングへ向くようになってきている。こうした中で、ボルダリングやルートクライミングの最高グレードが伸び、初・中・上級者層全体のレベルが上がり、かつては考えられなかったようなグレード(難度)のルートや課題が登られるようになった。
一方、クライミングの各ジャンルの島宇宙化が進み、「ボルダーしかやらない」「ルートしかやらない」といった、かつての「フリーをやらないアルパインクライマー」を裏返したような現象が見られるようになり、狭義の意味での「フリークライミング」、すなわち、近郊の岩場でのフリークライミングが定着し、フリークライミングが持っている冒険的意味合いが薄れつつあるのを心配する声が上がっている。そうした中で、グレードの追求と並行し(ないしは気分転換的に)マルチピッチやトラッドクライミングといった、冒険的なテイストを持つフリークライミングに新たに取り組もうとする者もいる。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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